昭和50年月日不明 タイトル不明  入力者松本正宏


 信心による、いよいよ心が純粋な素直な心が頂けてくるようになるのは丁度、鉛筆を削るようなものです。鉛筆を削っていくから芯が出る。その芯が純粋な削って出てくる。純粋な素直さです。ただ、生まれつき素直というそれとは意味が違うのです。信心で言う、素直さというのは削らなければ素直な心は生まれて参りません。昨夜合楽会でしたが、添田教会ですか、今日ここで、私が講師で、それから北九連、北九州の主だった青年の方達が私の話を聞く事になっておるのです。それで一昨日から、幹部の方達が出てみえて、昨日も七八人参って色んな準備があっております。でそれでそのことを聞かれて自分は青年じゃないのだけれども、娘さんが青年会の御用をしておられたけれども、赤ちゃんができられて出来なくなったから、お話を聞くだけでも、とにかく合楽教会というどういう会合でも合楽教会の話が出らないことがない。そりゃ良い事悪い事につけてそうである。いっぺん合楽の教会におひき寄せ頂きたいち言うて、昨日も早くから参ってみえる。それでまた初めてのところだし、自分で運転してみえるのですから、あの山超えしてこんならんですからね、それで、あの山を越えてすぐのところであのお教会のことを道を聞かせて頂いたらね、その人は信心も何も無い。ああ、合楽さんですか、合楽さんならばここですよち言うてから、地図まで書いてから教えてくれたという話を昨日しておられました。
 私それを聞かせて頂いてあり難いなあと思いますね。全然あんな遠いところでしかも合楽の事を聞いたらその人があの、信心も無いのにその地図まで書いてくれたという程しに合楽は有名になっておるとうい事なんです。久留米の町何々教会というて聞いたけれども、どげんところか知らん、さあそげんところがあったでしょうかと、いうような事くらいこの頃からも結婚式のバスがここへ来ました。それがどっか久留米教会でその、結婚式があるようになっておったらしいです。それでその、金光様はどこじゃろうかというたら、ああ金光様ならどうとこう吉井手前に合楽というところがありますよち言うて、ここまで来とったと。それでまた、三里の道を引き返してかなんというようにですねそれほどしに有名じゃないという事です。先ほど原さんが近所のお店に買い物に行かれたげなら、もうしんみりあなた方合楽にお参りをしなされんなら、そんに合楽というところは(?)ちいう話からですね、終いにはとうとうおかげの泉ばいっちょ私に読ませてくれちいうところまで話がいったという事ですけれども、やっぱりお供えをするという事はこれは身を削るという事ですから、ね。しかもだから芯がでるのですから、だからおかげ頂くのですから、そげんいやもう合楽に参りなさるところにはいっちょん貧乏人のおんなさらん話ですのち言うて、いや、そりゃ私の家ごたるそれこそきついところもあるけれども、段々おかげでその日暮らしでもです、神様の間違いの無いその日暮らしをさせてもろうてね、それが段々百円のその日暮らしから、千円のその日暮らしがさせてもらい、万円のその日暮らしが出きるようになるとじゃけん合楽の人たちは嬉しゅうして有り難うしてこたえんな、お参りしよなさったであり、お供えしよんなさったですよという意味の事を話されたというのですけれどもね。そういう事なんですけれどもよい事悪い事につけてやっぱこう神様のごひれいです。もう本当にあり難いと思わせて頂いたのですけれども、昨日そんなわけで合楽会が丁度十一時過ぎました。それで私はその方にあの風呂に入ってね、休みなさいと私は言ったのです。嫌、ところが嫌入りませんというていいよなさる、ああそうですかというて下がったところが、その、中村さんと田中さんがはあ、親先生から風呂に入れて入り無さらん事があるもんですかち。それから、私と親先生はあげん仰って頂くならば、もうどういう事でもはいの一つより他にないて。
 ここの人達皆おかげを頂いておるのはもう親先生の前には一もないニもない、はい一つで行こうという精進をしよるという意味のことを話よる。そげな事ならいっちょお風呂頂こうち言うてから頂く。なら私もお世話になろうち言うてから三人で入ったっちいうわけ。それで今日はさっきから中野さんの話を聞いてですたい、成る程私がその方が風呂に入りなさらなきゃならないわけが分かったのです。中野さんと同じにやっぱりその喉から声の出らない病気です。だからみて、裸になってです、いわれる事がです、ちょいとみて下さい私はこげな病気で注射はこげんしておるという話から、はあ、そんなら私がもういっちょひどかった。ばしょうど、ばしょうどて何かていうあるでしょう。それでもう今の医学ではどうにも出来ないような病気ですけれども私がある時にね、その事の病気の御届けをさせて頂いたら親先生が中村さん声がでらんならでらんとがおかげがちいわっしゃった。もうそれから、もう声に出らん事もおかげと思うことなりましたち。もうそれこそびっくりされたそうですね。
 たったその一言で安心したち言うのですから。けど、おかげで以来医者も言わなきゃ薬もいらん。おかげを頂いて、なら、声も出らん事もないこげなおかげを頂いておる。あなたの場合はもうそれこそこうやってね、注射だらけであるという話。そんなことここでお届けされませんから知りません。けれども、風呂に入らなければそういう事は分からない。ですから私は思うのですけれどもこの合楽の方達がいよいよ稽古していくのは、これはもう、だから馬鹿でもちょいでも良いという事ですよ。頭がようなからにゃならんという事じゃないです。けれどもお互いがです、親先生の仰ることは神様の仰る事としてね、金光大神が言われる事として、はいというて素直にきけれるところにね、金光大神と同じ働きが頂けれるわけです。親先生はあげん言いなさるばってんかのというたらいかん。ところが今の例えばならこの近所の教会でですね、例えば親先生の仰る事をそのように頂けれるという人はまずまず無いでしょうね。その人もそげなわけで大変熱心な御信者さんですけれどもです、とにかく素直にはいと言えれるという事が信心の尊い素晴らしいことであるという事は分かっておるけれどもです、中村さんと田中さんの話を聞かせて頂いて、そんならお風呂を頂こうという事によって自分の今度は本当に助かる道がそっからもう開けてくるのですからね。
 とにかくその、はいもですただ、生まれつき素直というのじゃいけません。信心が磨かれていうなら削られて、ね、身を削り心を削りして行きながらです、出てくるその信でならなければ、本当にお役には立たないという事ですね。昨日善導寺の(?)今北海道に行っておられます。あの、わざわざこの写真を見せる為に絵葉書を書きましたち書いてありますがね、あの、あれは何とかという詩人ですね。東海の、あの、小島の磯にというのがありましょうが、あれは、啄木ですかね、啄木の銅像です。これは。それにね、あの有名な東海の小島の磯の白砂にという句を思い浮かべておりますという意味の事を書いておりますが、それこそ東海の小島の磯の白砂に我、我無き濡れてカニと、かにとたわむるか何かというね、とても素晴らしい本当にその、情がこちらに通うてくるような歌を残しましたけれどもね、けれども、そういう素晴らしい頭脳やら情操の豊な人だったけれども一生貧乏で終わったという事です。今の金光教がこれじゃいでしょうかね。素晴らしい教え、素晴らしい天地の御恩徳をあの聞かせて頂くという事はこれより以上の情操はないです。例えばそれこそあの、朝の日の出を拝んでもあり難い夕日が落ちてもありがたい。それこそ、羽田野さんじゃないけれども、来る道々例えばあの雑草に白露がたまっておるのをみても感動するというように、こういう素晴らしい情操はないです。だからそういう事の素晴らしいことの情操はいかにも豊になっていきよるごたるけれども、おかげのほうは我なき濡れてカニとたわむると言ったようなことじゃないでしょうか。私はカニという事は横這いするという事。ね。だから本当の信心じゃないいうなら先生と戯れておるようなものですよ。全然おかげを受けていないです。やはりその、本当に今日青年会の方達が集まるからこの事をどうでもこうでもね、とても金光教が助かりゃにゃならん、金光教がもう行き詰まっておるけん、金光教をどうかせんならんというてもやっきになったっちゃ金光教がいわば元の勢いになる事はなかち。今のような状態であっては。だからね、私は神様の一番願いとされるところ、神様はここが痒かちいうならそこば掻かせてもらうようなおかげを頂かにゃね、神様の発動になってこない。ね。神様が発動ましませない。人間がいかに金光大神を現すちいうたっちゃ金光大神は向こう向いてござるけんいっちょん現れなさらんじゃないか。二十五年間も御取次成就信心生活運動をいいながら一つもなら信者が(?)ところが減っていきよるという事。ジリ貧になりよるという事。ね。それはどういう事かというと、その、本当のところに一つも神様の痒かちいいよなさるところが掻かんから。ね。一番神様が今が歯痒い思いをなさるというか、神様が一番心を痛めておられるのは地球上の危機です。ね。ですからここんところをなら、今、なら金光教の信者が五十万といわれておるが、その五十万のものがです、そりゃ金光教の(?)なんてんちいうことじゃなくてね、これが本当に世界のそういう難儀に取り組んでいくような事に具体的な策を講じるならばです、それこそ神様が先に立って現れて下さる。いわゆる、合楽次元活動それなんですよ。神様が不思議な働きを示し現せて下さる。神様が発動ましますどんな素晴らしい何百馬力なら何百馬力のその発動があってもですね、人間の力でこれば動かす事は出来ん。ね。どこにかボタンばあるとばボタンばいっちょ押せばね、がーちいうごたる回るとばってん、そのボタンば探しきらん。そしてああでもなかろうかこうでもなかろうかと人知の限りを尽くしよるごたるけれども、これじゃ、ほんな事私は分からん。ね。それでどういう訳で合楽であんなに人が助かる。か。どういうわけであげな医者が見放すような病人でんどんどん助かるかあれだけどうしてお参りが多いか。その元ば探そうとはしない。なら今日でもお参りしてきておるけれども、朝の御祈念に出てきておるおは一人が二人。わざわざここへ来ながらね残念でしょうが。なら、今日皆参ってくる人たちもそげな事をテーマにしてからの、話し合いでしょうけれども、もう本当にこれが、本当と頂ききらならかったらです、それが素直にはいと頂ききらなかったらおかげにならん。ね。とにかくそれにはそういう素直な本当のおかげの頂けれる心を頂く・・・(途中切れ)